今年、ブラザー・ロジェが亡くなって10年目の年にあたります。今年8月16日の週には世界中から青年たちが集まり、大きな祝祭の祈りが捧げられる予定です。
2005年のブラザー・ロジェの暴力的な死は、世界中の人々をショックを与えました。各紙で報じられ、まったく宗教に関係のないようなエコノミスト誌も特集を載せました。
10年前のブラザー・ロジェの死について、現在はあまり情報が日本語で公開されていないので、少し載せてみたいと思います。
2005年8月16日(火)、ブラザー・ロジェは2,500人が集まっていたテゼの「和解の教会」で、夜の祈りの最中に精神の問題を抱えた女性によってナイフで刺され、 間もなく息を引き取りました。それは現代の悲しみと苦悩の現実を象徴したような亡くなり方でした。
事件が起きたのは祈りで2曲目が始まったばかりのときでした。その時教会には医師が2人いて、すぐに駆けつけましたが、もうすでにできることは何もなかったと言います。
祈りは一時中断したものの、 「ブラザー・ロジェの意向は祈り続けることです」というアナウンスの後、皆そのまま祈り続けました。
翌朝8月17日の朝の祈りで、献げられた祈りは以下の通り。
共に寄り添ってくださるあわれみのキリスト、 あなたはすでに世を去った人とも、ずっと近くにいる人とも、 わたしたちを繋げてくださいます。 あなたの御手に今ブラザーロジェをおゆだねします。 彼はわたしたちが見ることのできない真実の中にすでにおられます。 彼の足跡の内に、あなたの光の輝きを迎え入れるようにわたしたちを整えてくださいます。
葬儀で新院長のブラザー・アロイスが捧げた祈り。
善なる神、わたしたちは、病いによって、ブラザーロジェの人生に終止符を打った女性をあなたの赦しにゆだねます。十字架のキリストとともに、わたしたちは祈ります:父よ、彼女をお赦しください。彼女は何をしているのか知らないのです。 ”
主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い
ブラザー・ロジェが亡くなった当日、ブラザーたちは夜中に「和解の教会」に集まり、歌と聖書と沈黙の祈りをもちました。そこで語られた、ブラザー・フランソワ(テゼで最年長のブラザーのひとり)の言葉。
聖書にはこのような言葉があります。「主の慈しみに生きる人の死は主の目に価高い」。
ブラザー・ロジェの死は、わたしたち皆にとって、たいへんな犠牲でした。死とは、何かが引き裂かれるようなものです。非業の死はより一層そう感じられます。そして、その死が精神的に不安定な人によるものであっても、絶望さえ感じさせる不公平感がぬぐえません。
わたしたちは暴力に直面するとき、平和によってのみ対抗することができます。ブラザー・ロジェは、つねにそう主張していました。平和は内的にも外的にもわたしたちの全存在を捧げることを求めます。それはわたしたちの全人格を必要とします。ですから、今晩、お互いに平和を伝え合い、すべての人が希望のうちにとどまることができるように、全力を尽くしましょう。
この聖書の言葉は、この死がわたしたちだけの犠牲ではなく、それは、神にとっても犠牲であるということを伝えています。神ご自身が、わたしたちと悲しみを共にしておられるのです。わたしたちとともに苦しんでおられます。聖書の言葉が語っているように、このように、神は「主の慈しみに生きる人の死」を感じておられます。
ブラザー・ロジェは、確かに主の慈しみに生きる人でした。ブラザーは初めから、神がわたしたちを愛してくださっているとわたしたちが理解できるように全力を尽くしました。終わりのない愛、だれをも排除しない愛、ありのままのわたしたちをを受け入れてくださる愛、限りない神の愛を。
この死が神ご自身の悲しみに触れるものであるならば、ブラザーロジェを通して、わたしたちに与えられた全てのことについて感謝を捧げましょう。
ブラザー・ロジェの葬儀の様子(1時間57分)
カトリック・プロテスタント、正教などキリスト教の様々な教派の指導者が協力して司式しました。