年表: ブラザー・ロジェの歩みとテゼ共同体の成立


個人的な備忘録として、テゼ共同体の主な出来事を年表にしてみました。
(未確認情報や推測も一部含まれます。転載・転用はご遠慮ください。)


ブラザー・ロジェの歩みとテゼ共同体の成立

ブラザー・ロジェ テゼ共同体の創設者・初代院長
(ロジェ・ルイ・シュッツ=マルソーシュ(Roger Louis Schutz-Marsauche))
1915年5月12日 - 2005年8月16日

1915年5月12日

スイスのフランス語圏ヌーシャテル州の小村ヴァル=ド=トラヴェールにて、9人の子供の末子として生まれる。上には7人の姉と兄が1人いた。

父のカール・ウルリッヒ・シュッツは、改革派教会(カルヴァン派)のスイス人牧師。母のアメリ・アンリエット・シュッツ=マルソーシュは、ブルゴーニュ出身のフランス人。母の実家は代々プロテスタントの家系である。


1915-1935年頃 

幼いころから家族でシャルル=オーギュスタン・サント=ブーヴの「ポール・ロワイヤル史」(ジャンセニスムの歴史を描いたサント=ブーヴの代表作。)を愛読し、ブレーズ・パスカルやアンジェリック・アルノーなどの著作によく触れる機会があった。

ロジェは、17世紀の女子修道院の勇気ある霊的な歩みに高い関心を持っていた。アンジェリック・アルノーという非常に若い一人の女性の献身(院長になったのが12歳のことだった。)が修道院の景色を変えただけでなく、世界に影響を及ぼすまでになったこと。

ポール・ロワイヤルは、西方教会の修道院の基盤である聖ベネディクトの戒律に立ち戻り、修道院生活をたて直す大改革を自ら行い、他の修道院に大きな刺激を与えた。また、学問の拠点としてブレーズ・パスカル、ジャン・ラシーヌ他、数々の著名人を輩出している。

ポール・ロワイヤルは、修道女の他に、一般信徒も信仰を新たにする福音生活を生きる拠点ともなった。敬虔な一般信徒が、誓願を立てることなく「Solitaires」と呼ばれる隠修士会を形成し、定期的に集まり、アウグスティヌスの霊性に従って生活をした。

ロジェは、数人の女性の共同体が成し遂げたことに感銘を受け、16歳の時にこのような言葉を残している。「数名の女性が、共同体の生活への招きに明確に応え、キリストのために献身し、周りの人々にそれほど大きな影響を与えたというなら、共同体で暮らす数名の男性だって、同じことができるはずではないか。」ポール・ロワイヤルは、テゼ共同体のモデルのひとつである。

自宅から通える中学校がなかったため、ロジェは下宿することになるが、父は息子を預ける下宿先として貧しく敬虔なカトリックの未亡人であるビオレ夫人の家庭を選んだ。ビオレ夫人が残された子供を育てるために、家賃収入による支えを必要としていたため。

十代のロジェは、他の若者と同様に、信仰から離れかけていた。その後、恐らくビオレ家での生活が原因で肺結核にかかるが、治療中の時期に再び神に立ち戻るようになる。

1936 - 1940年頃 ローザンヌ大学およびストラスブール大学で神学を勉強

結核から回復した後、20歳でスイスのローザンヌ大学およびフランスのストラスブール大学で神学の勉強を始める。ロジェ自身は、将来農家、詩人や物書きになることを夢みていたが、父親は許さなかった。神学を学ぶのは、父の強い勧めによるもの。

ロジェは神学校に通いつつも、自分たちの神学が他の神学よりもいかに優れているかという教授が熱心に語る議論には全く興味を示さなかった。彼が興味を持っていたのは、宗教改革者たちが、教会から袂を分かつまでの苦悩だった。どうしてキリスト者が分裂しなければならなかったか。

1939年 ローザンヌ大学での最終学年で、ロジェは計らずも学生キリスト者連盟の会長に選出される。連盟の活動で祈りの集いや聖書セミナーを精力的に企画し、ロジェの中で祈りの共同体を作るというビジョンがより具体的になる。

ロジェの関心は、ローザンヌ大学での卒業論文に強く表れている。そのテーマは、
「聖ベネディクトまでの修道生活の理想およびその福音への準拠性」
« L'Idéal de la vie monastique jusqu'à saint Benoît et sa conformité à l'Évangile »

1940年 当時25歳のロジェは、スイスから自転車に乗って(その頃交通機関は寸断されていた)単身フランスへ。修道共同体を作るための場所を探し始める。

1940年8月20日 フランスのブリュゴーヌ地方クリュニー近郊の人里離れたテゼ村に家を購入

テゼの家はフランスを二分していた軍事境界線からわずか2キロの場所に位置していた。ロジェは、中立国のスイスを目指してドイツ占領地からフランスへ逃げてくる政治亡命者を迎えて匿った。後には、彼らの世話を手伝うために、一番下の姉ジュヌビエーブも、テゼに移り住むこととなる。

亡命者の多くはユダヤ教徒で、なかには無神論者もいた。この頃ロジェは、滞在客が気兼ねせずに居られるよう、毎日森へ出かけて祈りと歌を捧げていた。

1942年11月11日 ロジェの留守中にゲシュタポがテゼの家を家宅捜索し、滞在していた人々は連行されてしまう。何度も家宅捜索を受けており、今度テゼに戻れば無事では済まないと知人から警告を受け、以後しばらくスイスのジュネーブで暮らすことを余儀なくされる。

1942-44年 ジュネーブで3人の青年と出会い、共同生活を始める。マックス・トゥリアン(神学専攻の学生)、ピエール・スーヴェラン(農業科学専攻の学生)、ダニエル・ドゥ・モンモリヨン(神学専攻、後にテゼで陶業を確立し、世界的な陶芸家となる人物)。

1943年 スイスの改革派教会で牧師の按手礼(正式な聖職者となる儀式)を受ける。ロジェ自身は、自分が何者でもないと考え、他の人々と同じように扱われることを望んだため、これはあまり知られていない。

1944年初秋 フランスがナチスの支配下から自由になり、ロジェは共同生活をしていた青年とともに再びテゼへ戻ることになる。しかし町や村は壊滅状態で、多くの人が家を失っていた。

その頃フランスでは、反ドイツ感情が非常に高まっており、ついにテゼ近くの捕虜収容所で、ドイツ人の若いカトリック司祭が地元の女性数名に殺害されるという痛ましい事件が起こるまでになっていた。

この事件後から、ロジェらは近隣のドイツ人捕虜収容所2か所に関わり始める。当局に許可を得て、毎週日曜日に捕虜たちを自宅での夕食に招いた。(その頃、食料はごくわずかだった。)ロジェらはこのために周辺住民から集中的な非難を受けることになるが、それでも自らの福音理解に従い続けた。

1945年 地元の弁護士が第二次世界大戦の孤児を世話する協会を設立。ロジェは弁護士から孤児の何人かを引き取るように頼まれる。そこでロジェは、姉のジュヌビエーブを再びテゼへ呼び寄せ、ジュヌビエーブはテゼの隣村アメニーに移り住み、戦争孤児たちの面倒をみるようになる。

1947年ごろ 

農業の専門家であったピエールの働きにより、周辺の農地は肥沃になり、1947年頃には自給自足ができるだけでなく、年々増えつつある訪問者を迎えるに十分な食料を生産できるようになる。

訪問者の多くはカトリック司祭であった。テゼの家で祈りに用いていた部屋はすっかり手狭になり、もう何年も使われないまま放置されていた村の教会を祈りに用いることができないかとロジェは考えた。

ロジェは地元の教会責任者に使用許可を求め、一度はこれが許可された。しかし、その許可は数週間後に撤回された。しばらくして、ロジェは村の教会が属するオータム教区の司教に許可を求めるが、司教はその判断をさらなる上層部にゆだねることにした。

1948年ごろ

ついにその件は、駐仏大使である大司教の手に委ねられることになる。ローマ・カトリック教会に属するテゼ村の教会を、プロテスタントの修道士団がその礼拝に使用するという異例の許可を出したその大司教こそ、アンジェロ・ジュゼッペ・ロンカリ。後に教皇ヨハネ23世として知られるようになる人物である。

1948年3月28日(イースター)

ロベール・ジスカールは、1948年のイースターに初めてテゼを訪問している。当時医大生であった。その後パリで医学の学位を取得し、その後テゼに入会した。

初期にはテゼで医者として働き、後年は音楽の担当者となった。ジャック・ベルティエとともに、テゼの音楽を確立することとなる。弟のアラン・ジスカール(農学者)も8番目のブラザーとして入会する。ロベールはフランス20代目大統領ヴァレリー・ジスカール・デスタンのいとこである。

1948年5月16日(ペンテコステ) 

小さな村の教会は、許可を得て、再びロジェたちの毎日の祈りの場所として使われるようになる。

この頃はメンバーが6人であったが、1948年にロジェはすでに最初の歌の作曲をジョセフ・ジェリノーに依頼している。ジェリノーは当時28歳でまだ叙階を受けていないイエズス会士だった。
ジェリノー神父は、1920年10月31日にフランスのシャン=シュル=レイヨン(メーヌ=エ
=ロワール県)で生まれる。1941年にイエズス会に入り、リヨン=フルヴィエールで神
学を、パリのフランク・セザール学院で作曲とオルガンを学んだ。4-5世紀のシリア教
会における詩編唱の形式をテーマに神学の博士号を取得。後に第二バチカン公会議で典礼のアドバイザーとなる。自国語で歌う聖歌について潮流を作った人物。
1948年 7月

イエスの小さい姉妹の友愛会の創立者シスター・マドレーヌは、初めてロジェと出会っている。シスター・マドレーヌも、キリスト者の一致と小さくされた人々との友愛に大きく貢献した人物。(イエスの小さい姉妹の友愛会は、シャルル・ド・フーコーの精神を受け継ぎ、1939年にアルジェリアのサハラ砂漠で、イスラム教徒の遊牧民の中で創立された。)

シスター・マドレーヌは、プロテスタントのブラザーたちがシャルル・ド・フーコーの霊性のうちに、また貧しさを求めて生活していると伝えている。以後、ブラザーたちとシスター・マドレーヌは深い親交を持つ。

1949年4月17日 復活祭の日曜日に、当時7名となっていた青年たちが、修道会で生涯独身、物質的および霊的な財産の共有、院長の司牧に従う生活への終生誓願を立てる。ロジェは当時33歳。
  1. ロジェ・シュッツ(Roger Schutz)
  2. マックス・トゥリアン(Max Thurian)
  3. ピエール・スーヴェラン(Pierre Souvarian)
  4. ダニエル・ドゥ・モンモリヨン(Daniel de Montmollin)
  5. ロベール・ジスカール(Robert Giscard)
  6. アクセル・ロクシェン(Axel Lochen)
  7. アルベール・ラクール(Albert Lacour) 
この日を境に、ロジェ・シュッツは、「ブラザー・ロジェ」と呼ばれるようになる。プロテスタントの修道会としてテゼ共同体が正式に発足。


1951年 当時12名のブラザーのうち2名を、テゼから40km離れた鉱山地域のモンソー=レ=ミーヌへ派遣。ブラザーたちは鉱山で働きながら修道生活する。

後年、他の分院(フラタニティ)が、とりわけアルジェリア、シカゴ、英国、スウェーデン、ルワンダ、ブラジル、バングラデシュなどに開かれることとなる。

1952/53年の冬 ブラザー・ロジェは、「テゼの会則」の初版を執筆。

1953年 ジョセフ・ジェリノー神父が作曲した詩編唱を、テゼのブラザーたちが歌ったレコード「Psaume」が発売される。これはジェリノー神父の作品の初めてのレコーディングである。

それまではラテン語で歌われていた詩編を初めて母国語のフランス語で歌ったことで高い評価を受けた。歌詞はエルサレム聖書のサルター(詩編)をもとにしている。これは第二バチカン公会議に先駆けて、母国語で賛美が捧げられる潮流を生んだ。後年、ジェリノーは第二バチカン公会議で典礼のアドバイザーを務めている。
コトバンク「詩篇」より  「カトリック教会においては第2バチカン公会議に先立って、自国語による《詩篇》の歌唱がとくにフランスでイエズス会士ジェリノーJoseph Gelineau(1920‐ )らによって促進され、今日の日本における〈典礼聖歌〉は主としてその流れを汲むものである。」
1954年 「Psaume」が1953年アカデミー・シャルル・クロ・ディスク大賞の歌部門を受賞する。このために、テゼの歌による典礼は、突如として知られるようになる。この賞は、フランスの優れた音楽録音物に贈られる権威あるディスク大賞で、米国のグラミー賞に相当する。

またこの年、ブラザーたちは酪農協同組合を設立する。この組合は、公正な価格と加工産業からの小規模農家の独立性を保証するものである。数年後には、1,200を超える農家がこの協同組合に加入した。

1955年 この頃ブラザーたちは、ジャック・ベルティエにテゼのための歌を作曲するよう依頼する。
ベルティエは、ジェリノー詩編を用いたアンティフォン(交唱歌)を作曲したことがあったため。この頃テゼの修道士は20名ほど。

この後1975年に再びブラザーがベルティエにコンタクトをとるまで、ベルティエとテゼはそれぞれの道を歩むこととなる。

1960年 聖公会出身の最初のブラザーが入会

1960-1962年 建築家のブラザー・デニス(Denis Aubert)の提案により、「和解の教会」を建築することになる。

教会の建設に協力したのがドイツのキリスト教系のNGO、Aktion Sühnezeichen Friedensdienste (AFS) から派遣された約60名の青年ボランティアによる国際チームである。

AFSは「行動・償いの印・平和の奉仕」の略である。テゼの和解の教会の建設は、戦時下で恐怖にあった地域に癒しの印を示すことを目指すAFSが最初に着手したフランス案件。

和解の教会の落成式は1962年8月5-6日に行われた。
1962 - 1965年 ブラザー・ロジェとブラザー・マックスは、ヨハネ23世から第二バチカン公会議のオブザーバーとして参加するよう招かれる。

1963年4月 - 1965年8月  和解の教会の地下に正教の聖堂(オーソドックス・チャーチ)を建設。この頃から、現在までイコンが使われている。

1964年 酪農の成功で築いた財産をも手放すべきと考え、家が建っている土地のみを残して、ブラザーたちの所有した牧草地、牛、トラクターは周辺農家たちに譲渡されることとなった。

1965年以来、毎年青年大会が開かれ、徐々に大規模になってくる。

1965年 診療室のあるエル・アビオド(El Abiodh) が建設される。

1966年7月 小さい姉妹マドレーヌの提案により、シャルル・ド・フーコーの霊性を中心にする修道会に属する約100名の代表者がテゼに集まり、「すべてのキリスト者のための観想への招きと、現代世界におけるその実践について」話し合う。

実はこの頃、イエスの小さい姉妹の友愛会がテゼ内に友愛の家を作るという話があり、1965年に建設されたエル・アビオドという建物は、恐らく姉妹会シスターの友愛の家として建設されたものである。その後、その話は実現しなかったが、「エル・アビオド」というのはアルジェリアの地名で、小さい姉妹の友愛会の家の一つである。

現在エル・アビオドは、テゼに協力する女子修道会のシスターが日中に活動する場所である。協力しているのはカトリックの伝統的な修道会で、ベルギーの聖アンデレ修道会、ポーランドの聖ウルスラ会、聖ヴィンセンシオ・ア・パウ口修道会など。シスター方は隣村のアメニーに住んでいる。

1969年  最初のカトリック出身の修道士(ブラザー・ギラン)がテゼ修道会に入会。

1970年 最初のカトリック司祭(ブラザー・マーセル)が、担当司教からの励ましと承認を得て、入会する。

最初のプロテスタントの修道会は、教会史上初のエキュメニカルな修道会となる。
(この初めから、カトリック出身者はテゼ入会後もカトリックを離れる必要はなく、籍を置き続けることが許されている。)


テゼでの生活

 
 

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