テゼのCDアルバムの音源をオンライン購入する

オンライン購入・その2:

テゼのCDアルバムの音源をオンライン購入する


音源購入ページの概要

テゼのファイル購入サイトであるダウンロード・エリアには、「Sheet music」(楽譜)と「Songs」(音源)の2種類のページ(英語・フランス語・ドイツ語)があります。

音源購入のページは、以下のようにアルバムごとに構成されています。

  • アルバム・ジャケットの右に、CDの説明が書かれています
  • 収録曲リストから試聴することができます
  • 購入する曲をチェックし、カートに入れていきます
  • 同時に全曲買うと値引きがあります

音源の購入画面
音源の購入画面
 © Ateliers et Presses de Taizé

この他に、購入したい曲のタイトルが分かっている場合は、原曲名を検索して楽譜購入のページへアクセスし、関連する音源を買うことも可能です。

ショッピング・カートから支払いに進む方法、オンライン・ショップにアカウントを作成する方法、購入したファイルのダウンロード方法は、また次回以降に説明します。

※このブログはテゼ共同体を紹介していますが、テゼ共同体のウェブサイトではありません。内容には個人の感想が含まれています。また、内容は執筆日現在のものであり、閲覧される時点の内容と異なる可能性があることにご留意ください。

テゼの楽譜・音源を購入する

オンライン購入・その2:

テゼの楽譜、CD・DVD、書籍、関連商品のオンライン購入

テゼのウェブショップ
© Ateliers et Presses de Taizé

テゼのオンライン・ショップ

この数年で、オンラインで直接テゼから購入できるものが増えてきています。

2012年4月から楽譜や音源のファイルが一曲から購入できるようになり、2013年秋には「テゼ・ウェブショップ」でテゼの商品(ハード)が購入できるようになりました。ペンダント、イコン、書籍、楽譜およびCD・DVDなど。

これまでテゼは、インターネットでの通信販売には積極的に対応していませんでした。通信販売対象の商品もわずかにありましたが、つい最近までは、ウェブサイトの分かりづらいから何とか申込書を見つけ、ファックスで注文していたものです。

今回の変更で、かなり簡単に、しかも安価に商品が手に入るようになったと思います。

テゼの楽譜集(器楽用)は、日本のキリスト教書店でも売っていることがありますが、テゼでの定価が25ユーロ(今日のレートで約3,400円)なのに5,000円以上で「えっ!」と思うことがあります。(もちろん、税金や送料などが含まれての値段なので単純比較はできません。)

いくつかまとめ買いをするなら、テゼから直接取り寄せたほうがずっと安く済む可能性があります。ただし、オンライン決済や税関を通しての個人輸入には、一定のリスクや留意すべき点もあります。

昨年2013年に『テゼ―巡礼者の覚書』という解説本が日本で発売され、巻末に楽譜の購入方法が解説されていますが、残念ながら最近のオンライン購入についての説明までは含まれていません。これから数回にわたって説明していきたいと思います。
  • 楽譜データや音源(ソフト)をオンライン購入する方法
  • 楽譜集/書籍/CD・DVD/イコン/ペンダントなど(ハード)を購入する方法 

※このブログはテゼ共同体を紹介していますが、テゼ共同体のウェブサイトではありません。内容には個人の感想が含まれています。また、内容は執筆日現在のものであり、閲覧される時点の内容と異なる可能性があることにご留意ください。

テゼの楽譜、CD・DVD、書籍、関連商品のオンライン購入

オンライン購入・その1:

テゼの楽譜、CD・DVD、書籍、関連商品のオンライン購入

テゼのウェブショップ
© Ateliers et Presses de Taizé

この数年で、オンラインでテゼから直接購入できるものが増えてきています。

昨年の2013年に『テゼ―巡礼者の覚書』という解説本が日本で発売され、巻末に楽譜の購入方法が解説されていますが、残念ながら最近のオンライン購入についての説明までは含まれていません。これから数回にわたって説明していきたいと思います。


テゼのオンライン・ショップ

2012年4月から楽譜や音源のファイルが一曲から購入できるようになり、2013年秋には「テゼ・ウェブショップ」でテゼの商品(ハード)が購入できるようになりました。ペンダント、イコン、書籍、楽譜およびCD・DVDなど。

これまでテゼは、インターネットでの通信販売には積極的に対応していませんでした。通信販売対象の商品もわずかにありましたが、つい最近までは、ウェブサイトの分かりづらい場所に何とか申込書を見つけ、ファックスで注文していたものです。

今回の変更で、かなり簡単に、しかも安価に商品が手に入るようになったと思います。


2種類のページがある

現在、テゼのウェブサイトには2種類のオンライン購入サイトがあります。前者がデータの購入・ダウンロードのページ、後者が通信販売の申込みページになります。それぞれの利用方法については、次回以降に説明していきます。

メリットとリスク

テゼの楽譜集(器楽用)は、日本のキリスト教書店でも売っていることがありますが、テゼでの定価が25ユーロ(今日のレートで約3,400円)なのに5,000円以上で「えっ!」と思うことがあります。(もちろん、為替変動や税金、送料などを加味しての値段なので単純比較はできませんが……。)

いくつかまとめ買いをするなら、(特に円高の局面にあっては)テゼから直接取り寄せたほうが安く済む可能性があります。ただし、オンライン決済や税関を通しての個人輸入には、一定のリスクや留意すべき点もあります。

※このブログはテゼ共同体を紹介していますが、テゼ共同体のウェブサイトではありません。内容には個人の感想が含まれています。また、内容は執筆日現在のものであり、閲覧される時点の内容と異なる可能性があることにご留意ください。

年表: ブラザー・ロジェの歩みとテゼ共同体の成立


個人的な備忘録として、テゼ共同体の主な出来事を年表にしてみました。
(未確認情報や推測も一部含まれます。転載・転用はご遠慮ください。)


ブラザー・ロジェの歩みとテゼ共同体の成立

ブラザー・ロジェ テゼ共同体の創設者・初代院長
(ロジェ・ルイ・シュッツ=マルソーシュ(Roger Louis Schutz-Marsauche))
1915年5月12日 - 2005年8月16日

1915年5月12日

スイスのフランス語圏ヌーシャテル州の小村ヴァル=ド=トラヴェールにて、9人の子供の末子として生まれる。上には7人の姉と兄が1人いた。

父のカール・ウルリッヒ・シュッツは、改革派教会(カルヴァン派)のスイス人牧師。母のアメリ・アンリエット・シュッツ=マルソーシュは、ブルゴーニュ出身のフランス人。母の実家は代々プロテスタントの家系である。


1915-1935年頃 

幼いころから家族でシャルル=オーギュスタン・サント=ブーヴの「ポール・ロワイヤル史」(ジャンセニスムの歴史を描いたサント=ブーヴの代表作。)を愛読し、ブレーズ・パスカルやアンジェリック・アルノーなどの著作によく触れる機会があった。

ロジェは、17世紀の女子修道院の勇気ある霊的な歩みに高い関心を持っていた。アンジェリック・アルノーという非常に若い一人の女性の献身(院長になったのが12歳のことだった。)が修道院の景色を変えただけでなく、世界に影響を及ぼすまでになったこと。

ポール・ロワイヤルは、西方教会の修道院の基盤である聖ベネディクトの戒律に立ち戻り、修道院生活をたて直す大改革を自ら行い、他の修道院に大きな刺激を与えた。また、学問の拠点としてブレーズ・パスカル、ジャン・ラシーヌ他、数々の著名人を輩出している。

ポール・ロワイヤルは、修道女の他に、一般信徒も信仰を新たにする福音生活を生きる拠点ともなった。敬虔な一般信徒が、誓願を立てることなく「Solitaires」と呼ばれる隠修士会を形成し、定期的に集まり、アウグスティヌスの霊性に従って生活をした。

ロジェは、数人の女性の共同体が成し遂げたことに感銘を受け、16歳の時にこのような言葉を残している。「数名の女性が、共同体の生活への招きに明確に応え、キリストのために献身し、周りの人々にそれほど大きな影響を与えたというなら、共同体で暮らす数名の男性だって、同じことができるはずではないか。」ポール・ロワイヤルは、テゼ共同体のモデルのひとつである。

自宅から通える中学校がなかったため、ロジェは下宿することになるが、父は息子を預ける下宿先として貧しく敬虔なカトリックの未亡人であるビオレ夫人の家庭を選んだ。ビオレ夫人が残された子供を育てるために、家賃収入による支えを必要としていたため。

十代のロジェは、他の若者と同様に、信仰から離れかけていた。その後、恐らくビオレ家での生活が原因で肺結核にかかるが、治療中の時期に再び神に立ち戻るようになる。

1936 - 1940年頃 ローザンヌ大学およびストラスブール大学で神学を勉強

結核から回復した後、20歳でスイスのローザンヌ大学およびフランスのストラスブール大学で神学の勉強を始める。ロジェ自身は、将来農家、詩人や物書きになることを夢みていたが、父親は許さなかった。神学を学ぶのは、父の強い勧めによるもの。

ロジェは神学校に通いつつも、自分たちの神学が他の神学よりもいかに優れているかという教授が熱心に語る議論には全く興味を示さなかった。彼が興味を持っていたのは、宗教改革者たちが、教会から袂を分かつまでの苦悩だった。どうしてキリスト者が分裂しなければならなかったか。

1939年 ローザンヌ大学での最終学年で、ロジェは計らずも学生キリスト者連盟の会長に選出される。連盟の活動で祈りの集いや聖書セミナーを精力的に企画し、ロジェの中で祈りの共同体を作るというビジョンがより具体的になる。

ロジェの関心は、ローザンヌ大学での卒業論文に強く表れている。そのテーマは、
「聖ベネディクトまでの修道生活の理想およびその福音への準拠性」
« L'Idéal de la vie monastique jusqu'à saint Benoît et sa conformité à l'Évangile »

1940年 当時25歳のロジェは、スイスから自転車に乗って(その頃交通機関は寸断されていた)単身フランスへ。修道共同体を作るための場所を探し始める。

1940年8月20日 フランスのブリュゴーヌ地方クリュニー近郊の人里離れたテゼ村に家を購入

テゼの家はフランスを二分していた軍事境界線からわずか2キロの場所に位置していた。ロジェは、中立国のスイスを目指してドイツ占領地からフランスへ逃げてくる政治亡命者を迎えて匿った。後には、彼らの世話を手伝うために、一番下の姉ジュヌビエーブも、テゼに移り住むこととなる。

亡命者の多くはユダヤ教徒で、なかには無神論者もいた。この頃ロジェは、滞在客が気兼ねせずに居られるよう、毎日森へ出かけて祈りと歌を捧げていた。

1942年11月11日 ロジェの留守中にゲシュタポがテゼの家を家宅捜索し、滞在していた人々は連行されてしまう。何度も家宅捜索を受けており、今度テゼに戻れば無事では済まないと知人から警告を受け、以後しばらくスイスのジュネーブで暮らすことを余儀なくされる。

1942-44年 ジュネーブで3人の青年と出会い、共同生活を始める。マックス・トゥリアン(神学専攻の学生)、ピエール・スーヴェラン(農業科学専攻の学生)、ダニエル・ドゥ・モンモリヨン(神学専攻、後にテゼで陶業を確立し、世界的な陶芸家となる人物)。

1943年 スイスの改革派教会で牧師の按手礼(正式な聖職者となる儀式)を受ける。ロジェ自身は、自分が何者でもないと考え、他の人々と同じように扱われることを望んだため、これはあまり知られていない。

1944年初秋 フランスがナチスの支配下から自由になり、ロジェは共同生活をしていた青年とともに再びテゼへ戻ることになる。しかし町や村は壊滅状態で、多くの人が家を失っていた。

その頃フランスでは、反ドイツ感情が非常に高まっており、ついにテゼ近くの捕虜収容所で、ドイツ人の若いカトリック司祭が地元の女性数名に殺害されるという痛ましい事件が起こるまでになっていた。

この事件後から、ロジェらは近隣のドイツ人捕虜収容所2か所に関わり始める。当局に許可を得て、毎週日曜日に捕虜たちを自宅での夕食に招いた。(その頃、食料はごくわずかだった。)ロジェらはこのために周辺住民から集中的な非難を受けることになるが、それでも自らの福音理解に従い続けた。

1945年 地元の弁護士が第二次世界大戦の孤児を世話する協会を設立。ロジェは弁護士から孤児の何人かを引き取るように頼まれる。そこでロジェは、姉のジュヌビエーブを再びテゼへ呼び寄せ、ジュヌビエーブはテゼの隣村アメニーに移り住み、戦争孤児たちの面倒をみるようになる。

1947年ごろ 

農業の専門家であったピエールの働きにより、周辺の農地は肥沃になり、1947年頃には自給自足ができるだけでなく、年々増えつつある訪問者を迎えるに十分な食料を生産できるようになる。

訪問者の多くはカトリック司祭であった。テゼの家で祈りに用いていた部屋はすっかり手狭になり、もう何年も使われないまま放置されていた村の教会を祈りに用いることができないかとロジェは考えた。

ロジェは地元の教会責任者に使用許可を求め、一度はこれが許可された。しかし、その許可は数週間後に撤回された。しばらくして、ロジェは村の教会が属するオータム教区の司教に許可を求めるが、司教はその判断をさらなる上層部にゆだねることにした。

1948年ごろ

ついにその件は、駐仏大使である大司教の手に委ねられることになる。ローマ・カトリック教会に属するテゼ村の教会を、プロテスタントの修道士団がその礼拝に使用するという異例の許可を出したその大司教こそ、アンジェロ・ジュゼッペ・ロンカリ。後に教皇ヨハネ23世として知られるようになる人物である。

1948年3月28日(イースター)

ロベール・ジスカールは、1948年のイースターに初めてテゼを訪問している。当時医大生であった。その後パリで医学の学位を取得し、その後テゼに入会した。

初期にはテゼで医者として働き、後年は音楽の担当者となった。ジャック・ベルティエとともに、テゼの音楽を確立することとなる。弟のアラン・ジスカール(農学者)も8番目のブラザーとして入会する。ロベールはフランス20代目大統領ヴァレリー・ジスカール・デスタンのいとこである。

1948年5月16日(ペンテコステ) 

小さな村の教会は、許可を得て、再びロジェたちの毎日の祈りの場所として使われるようになる。

この頃はメンバーが6人であったが、1948年にロジェはすでに最初の歌の作曲をジョセフ・ジェリノーに依頼している。ジェリノーは当時28歳でまだ叙階を受けていないイエズス会士だった。
ジェリノー神父は、1920年10月31日にフランスのシャン=シュル=レイヨン(メーヌ=エ
=ロワール県)で生まれる。1941年にイエズス会に入り、リヨン=フルヴィエールで神
学を、パリのフランク・セザール学院で作曲とオルガンを学んだ。4-5世紀のシリア教
会における詩編唱の形式をテーマに神学の博士号を取得。後に第二バチカン公会議で典礼のアドバイザーとなる。自国語で歌う聖歌について潮流を作った人物。
1948年 7月

イエスの小さい姉妹の友愛会の創立者シスター・マドレーヌは、初めてロジェと出会っている。シスター・マドレーヌも、キリスト者の一致と小さくされた人々との友愛に大きく貢献した人物。(イエスの小さい姉妹の友愛会は、シャルル・ド・フーコーの精神を受け継ぎ、1939年にアルジェリアのサハラ砂漠で、イスラム教徒の遊牧民の中で創立された。)

シスター・マドレーヌは、プロテスタントのブラザーたちがシャルル・ド・フーコーの霊性のうちに、また貧しさを求めて生活していると伝えている。以後、ブラザーたちとシスター・マドレーヌは深い親交を持つ。

1949年4月17日 復活祭の日曜日に、当時7名となっていた青年たちが、修道会で生涯独身、物質的および霊的な財産の共有、院長の司牧に従う生活への終生誓願を立てる。ロジェは当時33歳。
  1. ロジェ・シュッツ(Roger Schutz)
  2. マックス・トゥリアン(Max Thurian)
  3. ピエール・スーヴェラン(Pierre Souvarian)
  4. ダニエル・ドゥ・モンモリヨン(Daniel de Montmollin)
  5. ロベール・ジスカール(Robert Giscard)
  6. アクセル・ロクシェン(Axel Lochen)
  7. アルベール・ラクール(Albert Lacour) 
この日を境に、ロジェ・シュッツは、「ブラザー・ロジェ」と呼ばれるようになる。プロテスタントの修道会としてテゼ共同体が正式に発足。


1951年 当時12名のブラザーのうち2名を、テゼから40km離れた鉱山地域のモンソー=レ=ミーヌへ派遣。ブラザーたちは鉱山で働きながら修道生活する。

後年、他の分院(フラタニティ)が、とりわけアルジェリア、シカゴ、英国、スウェーデン、ルワンダ、ブラジル、バングラデシュなどに開かれることとなる。

1952/53年の冬 ブラザー・ロジェは、「テゼの会則」の初版を執筆。

1953年 ジョセフ・ジェリノー神父が作曲した詩編唱を、テゼのブラザーたちが歌ったレコード「Psaume」が発売される。これはジェリノー神父の作品の初めてのレコーディングである。

それまではラテン語で歌われていた詩編を初めて母国語のフランス語で歌ったことで高い評価を受けた。歌詞はエルサレム聖書のサルター(詩編)をもとにしている。これは第二バチカン公会議に先駆けて、母国語で賛美が捧げられる潮流を生んだ。後年、ジェリノーは第二バチカン公会議で典礼のアドバイザーを務めている。
コトバンク「詩篇」より  「カトリック教会においては第2バチカン公会議に先立って、自国語による《詩篇》の歌唱がとくにフランスでイエズス会士ジェリノーJoseph Gelineau(1920‐ )らによって促進され、今日の日本における〈典礼聖歌〉は主としてその流れを汲むものである。」
1954年 「Psaume」が1953年アカデミー・シャルル・クロ・ディスク大賞の歌部門を受賞する。このために、テゼの歌による典礼は、突如として知られるようになる。この賞は、フランスの優れた音楽録音物に贈られる権威あるディスク大賞で、米国のグラミー賞に相当する。

またこの年、ブラザーたちは酪農協同組合を設立する。この組合は、公正な価格と加工産業からの小規模農家の独立性を保証するものである。数年後には、1,200を超える農家がこの協同組合に加入した。

1955年 この頃ブラザーたちは、ジャック・ベルティエにテゼのための歌を作曲するよう依頼する。
ベルティエは、ジェリノー詩編を用いたアンティフォン(交唱歌)を作曲したことがあったため。この頃テゼの修道士は20名ほど。

この後1975年に再びブラザーがベルティエにコンタクトをとるまで、ベルティエとテゼはそれぞれの道を歩むこととなる。

1960年 聖公会出身の最初のブラザーが入会

1960-1962年 建築家のブラザー・デニス(Denis Aubert)の提案により、「和解の教会」を建築することになる。

教会の建設に協力したのがドイツのキリスト教系のNGO、Aktion Sühnezeichen Friedensdienste (AFS) から派遣された約60名の青年ボランティアによる国際チームである。

AFSは「行動・償いの印・平和の奉仕」の略である。テゼの和解の教会の建設は、戦時下で恐怖にあった地域に癒しの印を示すことを目指すAFSが最初に着手したフランス案件。

和解の教会の落成式は1962年8月5-6日に行われた。
1962 - 1965年 ブラザー・ロジェとブラザー・マックスは、ヨハネ23世から第二バチカン公会議のオブザーバーとして参加するよう招かれる。

1963年4月 - 1965年8月  和解の教会の地下に正教の聖堂(オーソドックス・チャーチ)を建設。この頃から、現在までイコンが使われている。

1964年 酪農の成功で築いた財産をも手放すべきと考え、家が建っている土地のみを残して、ブラザーたちの所有した牧草地、牛、トラクターは周辺農家たちに譲渡されることとなった。

1965年以来、毎年青年大会が開かれ、徐々に大規模になってくる。

1965年 診療室のあるエル・アビオド(El Abiodh) が建設される。

1966年7月 小さい姉妹マドレーヌの提案により、シャルル・ド・フーコーの霊性を中心にする修道会に属する約100名の代表者がテゼに集まり、「すべてのキリスト者のための観想への招きと、現代世界におけるその実践について」話し合う。

実はこの頃、イエスの小さい姉妹の友愛会がテゼ内に友愛の家を作るという話があり、1965年に建設されたエル・アビオドという建物は、恐らく姉妹会シスターの友愛の家として建設されたものである。その後、その話は実現しなかったが、「エル・アビオド」というのはアルジェリアの地名で、小さい姉妹の友愛会の家の一つである。

現在エル・アビオドは、テゼに協力する女子修道会のシスターが日中に活動する場所である。協力しているのはカトリックの伝統的な修道会で、ベルギーの聖アンデレ修道会、ポーランドの聖ウルスラ会、聖ヴィンセンシオ・ア・パウ口修道会など。シスター方は隣村のアメニーに住んでいる。

1969年  最初のカトリック出身の修道士(ブラザー・ギラン)がテゼ修道会に入会。

1970年 最初のカトリック司祭(ブラザー・マーセル)が、担当司教からの励ましと承認を得て、入会する。

最初のプロテスタントの修道会は、教会史上初のエキュメニカルな修道会となる。
(この初めから、カトリック出身者はテゼ入会後もカトリックを離れる必要はなく、籍を置き続けることが許されている。)


テゼでの生活

 
 

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祈りを企画する: テゼのスタイルついてのよくある誤解



日本の集いでは、それぞれの会場が持つ背景や事情により、独自に工夫した方法で行われていることが多くあります。

もともとテゼ共同体の歌は、それぞれの地域での司牧を助けるために分かち合われているものですから、それぞれの地域の事情に合うように、独自に工夫して用いることは悪いことではありません。

けれども、ある場所で行われている祈りをそのまま真似する形で別の場所へ受け継がれることが多く、必ずしもテゼとは関係ないことが、「テゼのスタイル」として広まっている場合があると思います。

今回は、多くの人が「テゼ」と思っているものの、実はそうではない慣習について、いくつか挙げてみようと思います。


楽器は沢山あった方がいいのか?

ほんの数十人ほどの集いなのに、フルートにリコーダー2本にクラリネット…。時にはトランペットやホルンまで…。極端な場合には、歌う人よりも楽器の人が多い場合があります。楽器はあればあるほどよいのでしょうか。

テゼで沢山の楽器が用いられるのは、大規模な集いのみです。「大規模」というのは、夏のピーク時に5千人~1万人の人々とともに祈る場合、数万人が集まるヨーロッパ大会などです。普段の礼拝は一番少ない冬の閑散期で300人ほど、通常は2~3千人ほどだと思いますが、ギター以外の楽器は用いられません。

たぶん日本で売られているCDが大人数で録音されたものばかりで、それらを参考にしているからかもしれません。集いを企画する際に、「テゼだからたくさんの楽器を入れなくては」と考えて、いろいろな人に声をかけて演奏者をかき集めることはないでしょうか。

全体的に日本の集いは楽器を入れすぎる傾向にあると思います。確かに、テゼの楽器譜にはいろいろな楽器のパートについてスコアが含まれていますが、これを全部演奏する必要はありません。

日本で行われているような数十名ほどの非常に小さな集いでは、ギター以外の楽器は必ずしも入れる必要はなく、逆に楽器を入れすぎることが、歌を妨げる結果となる場合が多いと思います。

楽器の音で、肝心の歌が聞こえないということはないでしょうか。楽器の演奏が拙いために祈りが妨げられるということはないでしょうか。

楽器の編成は、つねに全体の人数に応じて調整する必要があります。楽器は、あくまで会衆の歌をサポートするものです。ギター以外の楽器は、せいぜい2つくらいあれば充分だと思います。また、誰でもいいわけではなく、祈りを妨げないためには一定の演奏技術が必要です。


「アレルヤ唱」は必ず歌わなくてはいけないのか?

カトリック教会では、福音書の朗読の前にアレルヤ唱が歌われます。

日本の集いでも、慣習的に朗読の前にアレルヤ唱が歌われることが多く、アレルヤ唱は必ず歌わねばならない思っている方が多いようです。

福音書朗読の前にアレルヤ唱を歌うのは、日本の黙想と祈りの集い独自の風習で、 フランスのテゼ共同体や他の国の集いではアレルヤ唱はありません。


朗読は必ず福音書からとらなくてはいけないのか?

朗読は福音書に限る必要はありません。新約聖書の別の箇所でも構いません。


祝福/祝祷は入れた方がよいのか?

祈りの最後に聖職者による祝福や祝祷が捧げられる場合があります。 これも日本の黙想と祈りの集い独自の習慣です。

フランスのテゼには、司祭や牧師の資格を持つブラザーは複数いますが、ブラザーや院長が前に立って会衆一同に祝福を与える習慣はありません。必ず入れなければいけないものではありません。


主の祈りは必ず歌わなければいけないのか?

祈りの中で必ず入るものは、詩編、聖書朗読、沈黙だけです。テゼでは、「主の祈り」は朝の祈りでしか歌われません。また、これは唱えてもいいですし、省くこともできます。


共同祈願は必ずいれなければいけないのか?

祈りの中で必ず入るものは、詩編、聖書朗読、沈黙だけです。テゼでは、時間の長い夕の祈りのみに「共同祈願」が入ります。


ハンド・イン・ハンドはテゼか?

「テゼのハンド・イン・ハンドな雰囲気が苦手で……」と聞いて驚いたことがあります。祈りの中で握手をしたり、手をつないだりすることは、テゼ共同体では一切行われません。

確かに日本の一部の集いで「主の祈り」の際に、隣の人と手をつなぐということが行われていたことを見かけたことがありますが、それもかなり昔の話です。今ではほとんど行われていないと思います。

(集いを企画する人は、柔軟に工夫することも大切ですが、こういうことに抵抗がある人もいるということを念頭に置いておく必要があると思います。)


ご聖体の顕示は必要か?

ご聖体の顕示は、一部の集いで行われていますが、会場のカトリック教会や修道会の司牧的な理由で行われているもので、わたしは日本でしか見たことがありません。会場のニーズに合わせて柔軟に考えたらよいと思いますが、少なくともテゼの習慣ではありません。


CD: お勧めのアルバム

ブログのサイドバーにお勧めのテゼの本とCDのリストを追加してみました。これらは、フランスのテゼ共同体のアトリエで現在売られているCDのリストとほぼ一致します。
 
詳しい方はお気づきかもしれませんが、日本で売られているものと違います。実は、お勧めしたいCDの多くは、残念ながら日本で取扱いがありません……。
 
発売アルバムはテゼと日本で違いがある

テゼ共同体は2-3年くらいごとに新しいアルバムを制作していますが、日本で売られているものは、テゼが15年以上前に録音した音源(「インストゥルメンタル」以外)か、テゼ以外の団体が制作したものです。

ジャケットには2003年と書いてあったりしますが、これは日本での発売年であって、使われている音源はもっと古いものです。90年代、80年代のもの。

特に「カンターテ」は、今のテゼの音楽からは相当古いとものという印象を受けると思います。(貴重な録音であることは間違いないので、テゼ音楽の歴史に興味のある方は、絶版になる前にお求めになるといいかもしれません。)その他の録音は、基本的に現在のテゼの音楽とそれほど変わりません。

古い録音の中で、ぜひ聞いてほしいというものもあります。「ジョイ・オン・アース(Joy on Earth)」は、かなり古い録音ではありますが、収録曲うちジョセフ・ジェリノー神父作曲のものについては、ジェリノー神父が自ら指揮をしていて、貴重な録音です。

また日本では、テゼの音楽をプロの合唱団が歌ったものがいくつか売られています。これらはテゼでは販売されていません。音楽としてはたいへん美しいのですが、テゼで歌われているものとは、歌い方や演出にだいぶ違いがあると思います。テゼでの音楽の考え方を学びたい人にはお勧めしません。

どこが違うのかについては、また別の機会に説明したいと思います。
 

最初はテゼ制作によるCDがおすすめ

テゼでの音楽の用い方を知りたい人は、まず最初は、テゼ共同体が制作しているものを聞くことをお勧めします。コピーライトが「Atelier et Presse de Taizé」または「A&TP」となっているものが、テゼ共同体によって制作されたものです。

これらはレコーディング・スタジオで録音したものではなく、テゼの和解の教会、テゼ村の小さな教会での祈り、またはテゼのヨーロッパ大会の祈りを録音したものです。


Laudate omnes gentes

日本で祈りを企画する方に特にお勧めしたいのが以下の2枚です。


「Laudate omnes gentes」はテゼの定番の曲を16人の少人数で歌っているアルバムです。テゼといえば大人数で祈るイメージがあるかもしれませんが、ごく少人数で祈る場合もあります。このアルバムは、小さな集いのお手本として、とても参考になります。

以前、テゼの曲にはソロと会衆が交互に歌う種類の歌(「オスティナート・リフレイン」)があり、これらは大きな集い向けと説明しましたが、このCDにオスティナート・リフレインは入っていません。

時折ソロが歌われていますが、これらはまたオスティナート・リフレインとは別の種類の曲です。わずか16名で歌っていますが、4声で聖歌隊がしっかりハーモニーを支えて土台となっているので、楽器やソロを入れることができています。

(人数が少ないときにソロや楽器を入れると、会衆がつられて主旋律が崩れる場合があるので、参加する人が歌をよく知らない場合は、ソロや楽器は慎重に用いた方がよいと思います。)

そして、「インストゥルメンタル1」は、「Laudate omnes gentes」と同じ収録曲を、楽器だけで演奏したもので、伴奏の代わりに用いることができます。